2011/4/2

Social Dining – もう一度、社交に目を向ける

昨日、 @yukari77 に「Social Dining」というのを教えてもらいました。概略は上のつぶやきの通りなのですが、「Social Meals」とも呼ぶそうです。僕のイメージですが、欧米って、日本より「社交」という概念がプレゼンス高くて、それはある種の教養で、SNS自体がアメリカでまず始まって、どうも日本と欧米ではSNSの役割が違うという議論は、実名・非実名ということより、むしろこの「社交」ということに対する姿勢の差異みたいなところにある気もします。

勿論、日本にだって食事会やら飲み会やら、はてさて歓送迎会やら誕生会やら女子会やら、あるわけで何ら目新しいことではないと思います。僕だって酒を飲みに行くと言ったって、目的の半分は人と話すことです、というか、半分は酒を飲みに行く、半分は人と話す、みたいに目的自体を分けようとすること自体ナンセンスなのかも知れません。一方で、じゃあそれを「社交」だと思ってやっているかというと、それはもしかするとネットワーキングのためのパーティとか言われると、そうなのかも知れないのだけれども、でも基本的には「社交」だと思うことって感覚的に少ないですよね。でも何か印象ですが、欧米では教養の実践と養生の場としての「社交」があって、それがSocial Diningという文脈になっているんだと思う。

最近、あまり見なくなった気もしますが、よくデパートのレストランフロアのランチってオバサマ方の社交の場でしたよね。子供の頃、親に連れられてデパートに行くと、そういうオバサマ方で、レストランフロアは毎週末大混雑していました。もうちょっといい感じになると、それが銀座だったり、赤坂だったり、代官山だったりになるんだと思いますが。そういう日常と非日常のそのまた間に位置するようなところに、多分社交があったということでしょう。

僕らは今ソーシャルメディアで繋がっていて、それは連続的で分散的でエキサイティングなコミュニケーションだけれど、一方でそれはしばしば脊髄反射的で慌ただしくて、そういう意味では些か訝しい部分もある。いつも、Twitterで拝見しているから、お久し振りの気がしませんね、って言われることもままあるけれど、でも実際会って同じ時間を過ごすと、それはただ楽しいだけじゃなく、常日頃と大分違うこともあるという発見であったりもする。

でもそれはソーシャルメディア上で解決できるかというと、それは多分多くをそこに求め過ぎていて、あくまでソーシャルメディアも社会の役割分担の中でのある一部のロールを宛てがわれたということに過ぎないと思うのです。全てをそこに求めるのには無理がある。

「加藤企画はただの飲み会です」と言っているので、「加藤企画はSocial Diningです」とか言い出すと今まで言ってたのが嘘になると言えばそうなんですが、職場も環境も違う人達がしかし何かの理由をつけて集まることには多分大きな意味があって、僕もよく「何か理由つけてまた飲みに行きましょう」とか言うんですけど、理由って実は口実でしかなくて、だから「Social Dining」なんて言われると、それそのものが理由であり目的である、ということにもなるので便利だなと。

ET Luv.Lab.の結構最初の方で、ロザリウムの小林朋子さんにインタビューした時のタイトルは『Twitter文化はサロン文化』でした。本気で社交のためのサロンをやっている方が、Twitterをサロンと見なした。でも一方で、今僕はそれがゆえに特別なこととしてではなくて、自分が持っている社交のエコシステムの中にすとんとSocial Diningみたいなゆっくりと時間の流れる落とし所を欲している。

社交って言うのは社会と交わる、そのためのプロトコルだと思うのですが、もうなんか匿名性とかの議論はそこにこだわる人はそこにいればよくて、ただ個人的には人が社会と交わるための手段という文脈において、Social Mediaというツールがある、という構造として捉えたくて、だとすれば「Social Dining」ということも、結構Twitterがあって、Facebookがあって、食事がある、みたいに並列に考えられることなのかなと思ったりもしました。

何にでもSocialをつければ良いなんてのは、安易だ、ということは比較的気楽に言えますが、逆に言うと、今あるSocialということを「人が社会と交わる」という文脈で位置付けると、それは何か今言われているSocialの、その先にあるものを見透かすための、ヒントになるかも知れないなと感じています。

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