2011/1/1

問題解決と超個人主義

年始から何やら挑戦的なタイトルをつけてしまいましたが。

テレビの討論番組などを見ていると、実に論点が多いという気がします。様々な問題が提起され、深刻な問題ですと括られている。社会は社会問題というヤツで溢れている、というわけです。実際そうだと思います。ですけど、そんな多くの問題があるにも関わらず、政治もビジネスも社会運動も公共サービスも何だか難しい状況にあるわけじゃないですか。

何が言いたいかというと、社会問題って言われているものの多くって、個人の問題であるものが多い。というか、社会という総体で問題を捉えても、個人というレベルまでブレイクダウンしないと解決できない問題が多くあって、社会によって提供されるものは多くの場合サポートのためのフレームワークでしかないと思うのです。社会サービスとして個人が抱えている問題が解決されることなんてごくわずかだと思います。

勿論、今まで治療が不可能だった病気に新薬が使えるようになるとか、社会による問題解決なくして解決し得ないものはある。そういうものはとても大事です。一方で個人の力なくしては解決し得ない問題というのが、社会問題として認識されてしまうことの誤りというのもある。

例えば就職難や自殺者増加やうつ病の問題は確かに社会問題となって顕在化してますけど、解決するのは個人とその周辺にいる人達です。社会というものは政策や制度やサービスでサポートしてくれるかも知れない。けれども問題の本質はそこにない。問題の当事者は個人でしかない。

不況になれば給料は下がるし、消費は落ち込むし、雇用は減るし、だけれど好況に戻ればそれらの問題が一律改善されるわけではないし、何となく好況に戻るわけではない。社会問題が個人の問題の総体であるように、社会の問題解決も個人の問題解決の総体なんです。

と言い切ってしまうとそうとは限らない、のかも知れませんが、でも、そういう覚悟がないと社会の構成員である意味もない。だから、超個人主義と言ってみたわけです。個人の問題解決の総体が、社会の問題解決に結びつく、そういうイマジネーションが大事じゃないでしょうか。

「小さなことでも皆でやればきっと社会はよくなる」でもいいんですが、僕は「個人が個人の抱える問題とガツンと向きあう」ことの方を応援したいんです。その方が社会も良くなると思うから。

ビジネスにおいては問題解決能力が大事、という話は長く言われてきたことです。それは生きるということにおいても実は同じなはずで、日本人一人一人が問題解決能力をフルに発揮して生きていく、でもそういうことなくして、今の社会問題って提起され続けるだけの「問題はたくさん認識しているというスローガン」になってしまいませんか。社会の問題を認識することで安心してはいけない。大事なのは個々が自分の生きる半径にある個別の問題を解決していくことです。

ノブレス・オブリージュ、というより、日本人の地力の発揮か。

だから、やれること、やるべきことを、やっていく、そんなことを思った年始でした。

まあ、頑張ります。

加藤 康祐 / 企画・設計

プランナー、デザイナー。加藤康祐企画設計代表。Webデザインを入り口に、2005年よりフリーランスとしてのキャリアスタート。主な仕事としてベンチャー企業でのサービスのUXデザイン、独法との防災メディアの運営、社会的養護の子どもたちの自立を支援するNPOのサポート。ラグビーと料理、最近イラスト。

加藤康祐企画設計

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