市井の人
今日知り合いのデザイナーに「加藤さんは市井の人だから」と言われて「はにゃ?」となりました。活字で読むとわかるんだけど、口頭で言われるとなかなかピンと来ない言葉ですね。市井の人。はてなキーワードを参照してみました。
街の中にいる普通の人という意味。市民という言葉が「市民運動」や「市民団体」といった左翼的な意味合いを帯びた言葉と区別する意味で、中道的な人々をあらわすときにしばしば使われる。
ああ、これは僕にとっては大層ありがたい褒め言葉だなあと思いました。「中道」という言葉はあまり使いませんが、僕の人生の大きな指針の一つとして「中庸」ということがあるわけで、そう言えば以前後輩に話していたときに「芸風がないのが僕の芸風」みたいなことを言ってたのだけれども、没個性というところに収まりたいわけではなくて、むしろ灰汁は強いところは強い人なので、ただ押しなべて「中庸」でありたいとは思うわけで、知人から「市井の人」と評されるのはいいことだな、と勝手に納得していました。
言われてみれば、業界人とか、エッジィなこととか、そこまで惹かれてなくて、ただ『三銃士』読んで幸せだし、祖母に昼飯を供して幸せだし、プレゼン後に一杯一人でひっかけて幸せだし、それは冷静に考えると、仕事に役に立たない本を読んで何になる!ということかも知れないし、勤め人は昼飯自炊なんてできないよ!ということかも知れないし、午後の3時に酒飲むなんて社会人のすることじゃないよ!ということかも知れないのですけれども、そこにはある種僕の生活における必然があって、自由ということはあくまで結果なのだけれども、人生を豊かにするという意味では、こういうライフスタイルをオーディナリーと感じることができるのは総じて幸せなことだなあと思います。
「Ordinary People」とか「Ordinary Days」とか、言うと、ともすれば、つまらない人々や、つまらない日常を連想してしまうのかも知れないけれども、こうして価値観や環境や生き方が複雑化して、かつ厳しい時代にあって、「平凡」とか「中庸」とか「中道」とかいうことの中に、人生の慈しみを見出せることというのは、実はむしろ恵まれているんじゃないかと思ったりします。人生に特別なサプライズって必要不可欠ではないと思う。むしろ淡々と粛々と進めていく日常の中に、滋味とも言うべき味わいがあればいいのだと、そんなことを考えます。
だから、「市井の人になりたいです」とかいう話って、通常の文脈では成立し得ない話なのかも知れないですけど、ステレオタイプではなくて、何かこう胸を張って「市井の人」を体現できると、それはそれでカッコいいんじゃないかなどと家で一人で考えていたら思いました。
勿論、僕の友人はそう思ってないかも知れないし、僕のクライアントはそう望んでないかも知れない。ただ、押しなべてそういう評価をもらえるところに人生を持っていけると、それは何か僕が望んでいる人生の結実に近付ける道筋のような気もしています。
とは言え、一人で仕事をしていると、「市井の人」を目指していたはずが、「井の中の蛙」に成り下がっていることもあろうかと思います。きちんとした了見を持って、周囲の意見をよく聞いて、ただ人生を淡々と粛々と全うするということを考えつつ、一日一日を大事に生活していこう、と素直に思えたことは、今日の作文の収穫なのかも知れません。

加藤 康祐 / 企画・設計
プランナー、デザイナー。加藤康祐企画設計代表。Webデザインを入り口に、2005年よりフリーランスとしてのキャリアスタート。主な仕事としてベンチャー企業でのサービスのUXデザイン、独法との防災メディアの運営、社会的養護の子どもたちの自立を支援するNPOのサポート。ラグビーと料理、最近イラスト。
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フリーランスとして働き始めるってどういうことだったのか?フリーランスとして働くってどういうことなのか?フリーランスが目指すことってなんなのか?5年間の自分の経験から書きました。(2010年執筆)