2009/9/25

ただひたすら仕事をするという行為自体の意味性を考える

そう言えば、昨晩最後まで僕の酒に付き合ってくれた後輩と話しておりまして、「加藤さんの仕事とは、みたいな話は死ぬほど聞いてますねえ」という話になりまして、ああもう僕って最低、申し訳ない、という気持ちで一杯だったのですが、ふと思うと、ああでも「仕事とは」みたいなこと考えてる時間って、とっても長いなあと改めて気付きまして。

でも基本的に仕事とは何ぞやということを言い切れるわけじゃないんですよ。

むしろ、なんかその時々の進行中のプロジェクトやクライアントとの関係性、自分の興味や今後の指向性に応じて、その時々仕事をするという行為の意味性をあれやこれやとごにょごにょ考えていて、なまじ一人で仕事をしているものだから、身近な人に話して、どこに違和感を感じるのか、どこを共有できるのか、というのを確認したいんでしょうね。

そう言えば、昔は毎日のように仕事とは、ということを色々教え込まれて、それは仕事の能率アップとか、新しいスキルとか、そういう実学っぽいことだけでもなくて、かと言って、哲学や信条ってほど重いものだけでもなくて、何かと言うとそれって姿勢とか習慣とかいうことだったのであろうなあと。

中学時代にバスケットボールをしておりまして(余談ですが、学生時代の師匠との最初の出会いは中学のバスケ部でした)、バスケットボールは習慣のスポーツなぞと言われるそうです。

たまあに、近所のジムに出かけると体育館の半面がバスケットボールできるようになっていて、僕が行く時間帯はたいてい誰も使っていないので、シュート練習なぞをしてみるのですが、これがなかなか決まらない。

ただ、体に覚えているものがあって、理詰めで調整していくと10年以上ブランクがある僕でもそれなりに思うようにコントロールできるようになるんですよね。まずゴールの真下で手首を返す感覚を思い出して、次にちょっと離れて膝の屈伸の感覚を思い出して、更にボールが描く放物線を自分のイメージに近づけるように体を伸ばす方向をバランスとって、というような。

体に身についているものは理詰めで少しずつ思い出していくと、何となく全体の調和が図れるようになっていく。でも、今僕はラグビーやっているわけで、学生当時とは筋力バランスもボールとの感覚も違うわけです。だから、都度ゴールとボールのずれと、シュートを打つ時の体の使い方を照らし合わせながら、身体感覚的なフィードバック得て修正しながら、徐々に誤差を縮めていく。

そんなことを15分20分やっていると、それなりに思うようにボールがゴールにおさまるようになるのが面白くて、たまに時間がある時にその「思い出させる作業」をやっています。僕は社会人になってからはゴルフはやっていないのですが、ゴルフのスイングの調整の感覚とかにも通じるところがあるのかも知れません。

そういうスポーツにおいて目的のための自分の機能や使い方を調整していくという作業を日々繰り返していくように、仕事も自律的に微調整をしていくためには、新陳代謝じゃないですけど、日々そのもっともベーシックな部分を見つめて、発信し反省し調整する、という作業が必要なのだろうなと改めて思った次第。

それって、まさしく仕事をするという行為自体の意味性、ということなのではないかなと思いました。

もう5年くらい上司いない仕事をしていますし、日々顔を合わせる同僚もいないわけで、であるからこそ、しつこくしつこく仕事をするという行為自体の意味性の再定義を行って継続していくことが、それはもう「汗を掻く」みたいなことと同じレベルで必要なのではないかと。

たくさん能書き垂れられるのが、一流の芸、というわけではないですが、まあまだ30歳前ですし、まだまだあくせくしてていいのかなと。

ただ仕事をするだけじゃなくて、常に考えながら仕事をする。昔は仕事は考えなくてはできませんでしたが、慣れてくると考えなくても仕事ができるようになってきてしまう部分もあります。でも惰性でメニューをこなしているだけでは意味がないし、進歩がないんだということは、毎週のラグビーにも通じるところがあります。

加藤 康祐 / 企画・設計

プランナー、デザイナー。加藤康祐企画設計代表。Webデザインを入り口に、2005年よりフリーランスとしてのキャリアスタート。主な仕事としてベンチャー企業でのサービスのUXデザイン、独法との防災メディアの運営、社会的養護の子どもたちの自立を支援するNPOのサポート。ラグビーと料理、最近イラスト。

加藤康祐企画設計

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