分業について考える – 乖離と吸着
Twitterでのこんな発言が気になりました。
今のメディアの敗因は、ビジネスとジャーナリズムの接点を考えようとしないところにあると思っています。記者やコンテンツ作製者はビジネスのロジックを軽蔑すらして、そういう嫌な仕事は人にやらせればいい、と思っている人が多い。いいコンテンツを作れば売れると思うのは無邪気すぎる。
Tumblrでこんなことも。
特集vol.40 飴屋法水 インタビュー P2/2 -特集:CINRA.NET
「分業」って、ある行為を半分バーチャルなものにする作業だと感じるんです。例えば、動物を食べることにしても、殺すことを分業化されているから、食べる行為の半分ぐらいはバーチャルなものになっている。しかし、脳内でのバーチャル化の比重が高すぎれば、その行為をめぐっての無意識の領域は、やせ細ってもいくだろう。これは、その行為について考えたり、個人として判断をしていくことを、どんどん不可能にしていく気がするんです。例えば死刑制度。死刑にする、つまり「殺す」という実作業は分業されているから、自分は手を下さないまま、死刑制度は必要と思う、という側に立つことになる。なんだかそこが気持ち悪い。だから僕はダーティーハリーは好きだけれど、必殺仕置き人は不気味なんです(笑)。そこにはすでに戦争の芽がある気がする。こういうこと、たくさんあると思うんです。だから僕は色々なことが、わからない、わかりたいと、言い続けていたいんです。
更にこんなのも。
Tomoya Kitayama (gamella) on Twitter
ネットは最強のコラボレーションツール。マーケティングでもなんでも、コラボレーションしなければ、そりゃ、バカと暇人のモノ。
低下したコラボレーションコストをどのように活用するかを仕込まないとたいしたことはできないでしょ。
今の世の中は基本的には高度に分業化された社会だと思います。なんだけれども、分業が高度に機能しているか、という意味ではまだまだ不十分なところが多いでしょう。経済の規模の拡大に伴って、合理性という名のもとに職掌が細分化され、利点もあるけれど、欠点も多くある。個の力って、一時代前の方が豊かだったのではないかと考えてしまいます(根拠はないけど)。
ITが出てきて、ネットが出てきて、個のエンパワーメントだとか、Peer to Peerのコラボレーションだとかということが志向されて、ということは、現代社会のピラミッド構造型の分業体制を、もう一度構築し直す、ぐちゃぐちゃにする、ガラガラポンして再構築する、という使命を帯びているのかも知れません(それは最早構造物ですらないものになるのかも知れない)。
僕は結構、原体験的な感覚って大事だと思っていて、先ほど引用した飴屋法水氏のインタビューに大いに賛同するところなのですが、一方で、個のエンパワーメントだとか、Peer to Peerのコラボレーション、というようなことは、もう一度、「責任」とか「思い遣り」とかいうことが「個」に還元されてくる、そういう重荷を背負うことでもあるんだよ、ということが、イマイチ理解されているのかなあという疑問も感じたりしています。
とは言え、ワークスタイル的なこととか、ライフスタイル的なことからの、世の中のガラガラポンはまだまだ期待したいし、そうならぬと先は行き詰まっていると思うので、経済合理性の中で進んでいった分業によって、乖離した個と個の距離感が、社会としての分業の体制は維持しつつも、個のエンパワーメントだとか、Peer to Peerのコラボレーションというように、個と個の距離感を再度吸着していく、という方向性は、大いに夢のある未来だとも思っているわけです。

加藤 康祐 / 企画・設計
プランナー、デザイナー。加藤康祐企画設計代表。Webデザインを入り口に、2005年よりフリーランスとしてのキャリアスタート。主な仕事としてベンチャー企業でのサービスのUXデザイン、独法との防災メディアの運営、社会的養護の子どもたちの自立を支援するNPOのサポート。ラグビーと料理、最近イラスト。
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フリーランスとして働き始めるってどういうことだったのか?フリーランスとして働くってどういうことなのか?フリーランスが目指すことってなんなのか?5年間の自分の経験から書きました。(2010年執筆)