2009/8/9

美について

「美」ってあまりに日常とかけ離れている言葉だと思います。美しいという言葉を発するには、恥じらいを感じざるを得ません。何かこう酒の勢いに任せたとしても、「美」を語るというのは僕にとってはむこうみずというか、恐れ多いというか、差し出がましいというか、逆に言うと常に「美」ということには羨望と憧憬の両方があるのかも知れません。

白洲正子さん、戦後の日本の芸術、文学、骨董の世界に多大なる影響を及ぼした人ですが、ここ数年の白洲次郎&白洲正子ブームで自伝的なものは読みましたが、改めて文筆家として、最近白洲正子氏の著作を読み始めまして、それが大変面白い。あえて自分を「素人に毛が生えたもの」くらいの立ち位置に置いて語ることで、同世代の美の先鋭主義者を軽やかに描き出しています。

今読んでいる本は正子さんの『遊鬼』という、彼女の交友録を回顧しつつ、やはり美の探究者であり求道者であった人たち(最終的には白洲正子さんの美への飽くなき欲求というものに一番唖然とさせられるんだけれども)との思い出話を通して、それはある種、真実の模索というか、昭和の時代の手探りの諸々を描き出している傑作だと思います。

さて、その『遊鬼』で引用されていて久し振りに思い出したのが、小林秀雄氏の「美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。」という言葉です。これは深い。元々は能における世阿弥の「花」に対する解釈を言い表した言葉のようなのですが、こういう考え方が1000年ほど前からあったということは逆に驚嘆すべきことで、そういう意味で、多分に未来に対して示唆的な言葉であったのだろうと思います。

先日、「デザインの論評は面白くない」という記事を書きましたが、ある種それにも通じることがあって、同じく『遊鬼』において白洲正子氏の師匠にあたる青山二郎氏は「美なんていうのは、狐つきみたいなものだ。空中をふわふわ浮いている夢にすぎない。ただ、楽しいものがあるだけだ。ものが見えないから、美だの美意識などとうわ言を吐いてごまかすので、みんな頭にきちゃってる。」と言ったとされています。これも、「美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。」という言葉に通じるものがあります。

本来的に美に対する人間の態度というのは、「ネチネチ呆れるくらいただひたすら付き合う」ということであって、説明論的に解釈することって、本来的に青山二郎氏の言葉を借りるならばうわ言でしかないと思うのですよね。むしろなんかモノと対峙して、ひたすら思案した挙句、それが自分の人生に跳ね返ってくるようなことが、本当の意味での「美」であって、「美」なんて圧倒的なものは実は人生の糧になんてことはできないし、それはおごりで、言ってしまえば邪魔ものでしかないんだと思うのですよね。

それでも「美」に取りつかれる人がいて、もしかすると地球上に未踏の地がなくなった現代における最後のフロンティアで、それはまさしく仙人を目指すべく仙道の道に入るようなもので、甚だはてしない話なのかも知れないのですが、ただただ、人はしばしば「美しいもの」に出会って、その美しさを自分の言葉にできず足掻きもがき抗うというのが言わば「自然」で、そういうことを考えた時に、「美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。」と言われて、そういうものかと初めて臓腑にすとんと落ち着くのかと思うのです。

加藤 康祐 / 企画・設計

プランナー、デザイナー。加藤康祐企画設計代表。Webデザインを入り口に、2005年よりフリーランスとしてのキャリアスタート。主な仕事としてベンチャー企業でのサービスのUXデザイン、独法との防災メディアの運営、社会的養護の子どもたちの自立を支援するNPOのサポート。ラグビーと料理、最近イラスト。

加藤康祐企画設計

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