2009/6/29

凡人は天才と出会い天を仰ぎ、天才は凡人と出会い地を踏みしめ、人は人と出会って人でいる

ええと、インスパイアバイ友人のメール、なのですが、ちょっと『天地人』って、NHKの大河ドラマとしてどうかと言えば、まだイマイチ乗りきれてない感じなのですが、にしても「天地人」ってなんか荘厳でスケール感のあるいい言葉だよなあ、と漠然と思いまして、何か作文できないかと思って捻り出したのが、「凡人は天才と出会い天を仰ぎ、天才は凡人と出会い地を踏みしめ、人は人と出会って人でいる」というフレーズ。

そもそも天才と凡人の区別なんてできる話じゃなくて、前提条件からしておかしいのですが、とは言え、天才タイプと凡人タイプみたいなものは類型としてあるように思うのですよね。後は客観的な評価としての天才と凡人の区別っていうのは成立し得ないけれども、主観的な思い入れとしてなら成立し得るとか。

僕もこれまでの人生で、「うわー、天才だわ」という人には出会ってていて、あの人が天才でしたみたいなことは言うのが憚られますが、そのうちの一方が「行く先々で天才と思われるように仕事している」とおっしゃってたんですよね、別にそれを公言していたわけではなくて、極めて緊密な僕との関係性における会話の中で、ということですが。

自分を天才だと思っている、わけでは決してなくて、それこそセルフブランディングというかセルフマーケティングの仕方として自分に対してそういう意識づけをしている。これってスゴイことだと思うんですよね、僕にはできません。

一方で凡人というのもスゴイ。凡人で言葉自体が朴訥としていて総じて「つまらない人」って考えがちですが、そうではなくて、誰からでも「凡」として見られるってことですから、それはおそるべきバランス感覚で、僕の目指す「中庸の人」ということだったりもします。

おそらく点として「凡」を見定めるのは至難の技で、先にバランス感覚と書きましたが、右と左に大きく振れ幅を確保した状態でその中点にいるようなことだと思うのですよね。「動かざること山の如し」っていうのは裾野が広くて地盤が強固ってことですから、そういう胆力みたいなものも人としてやっぱりスゴイ。

逆に言うと、天才でも凡人でもない人って言うのが世の中の大半で、勿論、人間は天才か凡人かどちらかではなくてはいけないという話でもないですが、スゴイ天才とスゴイ凡人がタッグを組んだら、スゴイ化学反応が起きそうな気がします。

というのが、「凡人は天才と出会い天を仰ぎ、天才は凡人と出会い地を踏みしめ、」という話。

その上で、「人は人と出会って人でいる」という話ですが、人って「ただ生きている」だけでは人でいられないんだと思うんです。人類という生物学的な区分は別に生まれてから死ぬまで変わらないのでしょうが、人という社会的な存在であり続けるためには、対誰かの何かが常にアップデートされていくことが必要で、人は人に出会い続けないと人でいられないように思うんです。

生まれてから死ぬまで一つの村から出ずに生きる、というライフスタイルで仮にあったとしても、昨日の誰かと明日の誰かは違うわけで、それぞれがアップデートされていくわけで、そういう出会いの交錯があれば、やっぱり小社会でもアップデートされていくのだと思う。

今やグローバリゼーションだフラット化だって時代ですから、もっと顕著で、だからこそ人は人に出会い続けないと人であるということを肯定し続けられないように思うんですね。

とここまで書いて、そもそもの「天地人」の言葉の由来を引用します。

輝虎(謙信)公曰く。天の時、地の利に叶い、人の和とも整いたる大将というは、和漢両朝上古にだも聞こえず。いわんや、末代なお有るべしとも覚えず。もっとも、この三事整うにおいては、弓矢も起こるべからず、敵対する者もなし

だからまあ本来的には意味が違うんですが、とは言え、天才が時を知り、凡人が利を知り、人は和で整うわけだから、あながち話の大筋は外れていないような気もするんですね。

ただ一人で背負って立つには「天地人」という話は壮大過ぎるので、何かこうもう少し今の時代に都合がよく解釈できないかと試みてみた次第。

加藤 康祐 / 企画・設計

プランナー、デザイナー。加藤康祐企画設計代表。Webデザインを入り口に、2005年よりフリーランスとしてのキャリアスタート。主な仕事としてベンチャー企業でのサービスのUXデザイン、独法との防災メディアの運営、社会的養護の子どもたちの自立を支援するNPOのサポート。ラグビーと料理、最近イラスト。

加藤康祐企画設計

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