2007/8/31

正論の落とし穴

真っ当に考えると「正論」というのは「正しい論理」なわけですから最強なわけです。ロイヤルストレートフラッシュか、ブラックジャックか、というところですが、トランプゲームほど「正論」って用意するのって難しくないんです。論理矛盾がなければいいわけですから。

ただ、正論て言うのは強過ぎるわけです。正論がしばしば「征論」になってしまうことがあります。自分を正しく律するためのロジックではなくて、相手を打ち負かすためのロジックということです。恣意的に相手を押さえつけようという時ならいざ知らず、気が付かないうちに「正論」は「征論」に化けていることがあります。無意識のうちの敵愾心というのは相手に警戒を抱かせ、自分は自覚がないわけですから、ミスコミュニケーションが起きるのは必定です。

では正論はどうあるべきかと申しますと、「誠論、誓論、整論」の3つの「正論」を挙げたいと思います。

誠意という言葉はどこぞのタレントが誠意大将軍なんて言葉を吹聴して回ったせいで、僕の世代の人間には随分訝しい言葉として認知されているのではないかと思います。まあしかし、本来的に心のうちにある伝えたい正直なものを真っ当に伝えるのがコミュニケーションの目的で、色々なテクニックはあるにしろ、基本的なスタンスはこういうところにないと、どんどん他人から見たその人の品性が分裂して行ってしまいますし、誠意のない正論って感動は呼ばないですから、仮に正しい論理であっても相手の納得には結びつかないですよね。

自分に対しても他人に対してもコミュニケーションは誓約であると思います。政治家の演説も、ビジネス上の付き合いでも、恋人同士の愛の言葉も、これも本来的にという注釈がつきますが、対象への誓約であるべきです。よくビジネスの場面では言質というものが重要されます。「あの時ああ言ったじゃないか!」は水掛け論ですが、一方でそういうトラブルを起こさぬよう、常々注意は怠らないに越したことはありません。なので正論は誓論であるべきです。

場を整えるための言葉と、場を荒らすための言葉というのがあります。正論は前者であるべきだと思います。正しい論理の攻撃力は強烈です。ですから、相手がそれを汲んで対話が継続できるように、「整える」目的で正論は使われるべきです。荒らすために正論を使うと議論はあらぬ方向に向かってしまって収拾がつかなくなります。正論を提示されることで場が整理され、その上での議論を行えるような発言を目指すべきだと思います。

正論だけじゃ生きていけませんし、正論ばかり言う人は毛嫌いされたりもします。ただここぞという時に正論を言える人は、より良いコミュニケーションを図れる人だと思うのですよね。正論って言うのは自分の中で完結していることですが、「誠論、誓論、整論」というのは他者との関わり方における正論のあり方、ということですから。

加藤 康祐 / 企画・設計

プランナー、デザイナー。加藤康祐企画設計代表。Webデザインを入り口に、2005年よりフリーランスとしてのキャリアスタート。主な仕事としてベンチャー企業でのサービスのUXデザイン、独法との防災メディアの運営、社会的養護の子どもたちの自立を支援するNPOのサポート。ラグビーと料理、最近イラスト。

加藤康祐企画設計

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