2007/5/27

洗練ディピティ

駄洒落のようなタイトルですいません。茂木健一郎氏と梅田望夫氏の対談『フューチャリスト宣言』でセレンディピティという言葉が出てきて、どうやら茂木氏は色々なところでこの「セレンディピティ」について語っておられるようなのですが、ちょっと急浮上してきたホットワードなのかと思っていたら、最近読んだ外山滋比古氏の『思考の整理学』にも「セレンディピティ」は登場していて、脳や思考ということを考えてきた方達の間では、割と昔から語られている言葉のようなのです。

Wikipediaで言葉の起源を辿ってみると、Horace Walpole氏というイギリスの小説家、政治家が、『セレンディップ(スリランカ)の三人の王子』という童話を引き合いに、「何かを探している時に、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉」を定義付けたのが即ち「セレンディビティ」で、日本語でこれに該当する言葉はないのだとか。

似たような言葉で先述の茂木氏が好んで使う言葉として偶有性という言葉があります。茂木氏によると偶有性とは「半ば規則的で半ば偶然の出来事」言わば「半必然」(モノの考え方によっては半分必然ならそれは既に必然とも言えましょうが)ということだと思うのですが、セレンディピティは思考という領域における偶有性ということになるのでしょう。

こういう風に僕も思考のメカニズムを巧い言葉で説明できたらいいなあと思ったのですが、残念ながら僕は思考のプロではありません。ただちょっと今まで自分で明文化してない大事なことがあったのを思い出したのです。それは「洗礼」ということです。

よく「プロの洗礼を受ける」なんてことを言いますが、体系的に整理された知性に触れるとか、圧倒的な強固な意思に触れるということが、思考における洗礼なのではないかと思います。洗礼なので、「触れる」というより「浴びる」ということになるのかも知れません。

Experience TransportersのWEBサイトのブランディングの項で、「物語の醍醐味は主人公のイニシエーション(通過儀礼)」である、と書いていますが、このイニシエーションに対する外からのきっかけが即ち「洗礼」です。何かこう言葉の選択が宗教がかっていますが、元々人が困難に立ち向かい成長する術が宗教であるはずですし、世の中にはそう言った術が無数の宗派として存在していますから、人はありとあらゆる困難の洗礼を受けてその中で学び得たものを術に困難に立ち向かい、そのことがイニシエーション即ち人の成長を促すというのが物語のスパイラルなのだと思います。

と考えるといかにして人が洗礼を受けるのか、いかにして洗礼を受ける機会に恵まれるのかということが重要になってきます。宗教であれば、先天的なもの、家庭の宗教によるところが大きいのかも知れませんが、これは躾ということになりましょう。しかし生き方を自分で選べる年頃になると洗礼を受けるべきか受けないべきかという選択が常々あります。

つまり圧倒的な何かに向き合ってしまった時に、人は立ち向かうのか、遠ざかるのか、という選択です。立ち向かう方がカッコ良さそうですが、存外世の中には圧倒的な何かというのはたくさんあるもので、全てに立ち向かうのは何だか無駄な気もします。一方で圧倒的なものを常に避けて通っていると人は「井の中の蛙」から脱することはできません。

ですから自分に有用である洗礼を進んで受けて、自分に無用である洗礼を極力避ける、そんな能力が必要になって来ます。そういう能力のある人は洗礼を重ねるごとに人として洗練されていくのではないかと思います。そんな意味から記事のタイトルを洗練ディピティなんてしてみたわけです。そして、そうであるためには常に洗礼を受ける環境、圧倒的な何かの傍らに自分を置き、困難に直面ししかしその困難を慈しむような心持を持っておかないといけないのだと思います。

洗礼は時に怒気であり狂気であることもありますが、それを受け入れ自らの糧にし得ることが、人が洗練されるということなのではないかと。

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