2021/6/9

何者かになろうとしたが、何者にもなれなかった、普通のおっさんの話

「普通で終わるつもりはない」と親父に啖呵を切った記憶あるんですよね、20年ほど前に。当時、僕は学生で寸暇を惜しむ感じで仕事してて、まあなんかたまに聞くフレーズでいうところの「何者かになろうとしていた」のかなあという気がします。なんだろう、有名になりたい、とか、金持ちになりたい、とか、そういうのではなかった気がするし、起業して上場するぞ、とか、社会を変えてやるんだ、とかもなかった気がするので、なんだったんでしょうね。何となく「普通で終わる」ということに終末感を見ていたのか。今、思うと「普通に終わる」のすごく幸せそうなことにも思えるけれど、若気の何とかだったのでしょうか。

そういう意味では30代は、少なからず何者かになりつつある感触というか、なんか人と違うことできてるんじゃないかとか、新しい生き方にたどりつけるんじゃないかとか、普通じゃない感覚ってあった感じなのだけれども、そういうの全部一旦引っ剥がして、なんだろう熱狂のなさみたいな年月をしばらく経てみたら、なんか僕スゴイ普通だよなあと思ったんですよね。それが割と心地良い。

標準的な日本人とか、一般的な日本人とか、言葉としてはあるけれど実際にそういう人はいないだろうにとも思うわけだけれども、僕の普通はそういうわけでもないし、あくまで自分の基準において「普通」とできるところに落ち着いたということかな、という気もするんですが、普通じゃない状態で闘ってた時期が長かったかもなという気もしていて、良くも悪くも。後はコロナ禍以降、ある意味、僕が特別だったことが、どんどん特別じゃなくなって来てなおさら、ということもあるのかも知れない、ニューノーマルというやつですね。前も書いたけど、僕自身はコロナ禍でほとんど何も変わってないような気もするよなあ。

名誉とか地位とかは元より、収入とか名声とか、交友関係とか無形資産も含めて、そんな確かなものじゃないよなあという気がしていて(体調崩す前にそういうものをたくさん抱えていたわけでは全然ないが)、何者にもならなかったが、確かなのは、続けて来たことはうまくなってるということですね。ラグビーとか、料理とか、あ、あと一応Web作ることとかも書いとかなきゃ駄目か。普通で良いなあ、という今の感覚は、ある程度、色々なことがうまくなったことに裏打ちされているのかなという気もしていて、普通であることに何ら不安がなく。

あー、そうだ。もしかしたら若い頃の僕は「普通であること」に不安を感じていたのかも知れないですね。なんかそれなりに良い教育を受けて、周囲からも期待も受けて、というような。しかし、歳を重ねてみると、「普通であること」に安心を感じることもできるし、「普通であること」は結構難しいことだとも思えるようにもなって。今、割と普通なの、結構良いぞ、と思えるようになって来たなと。

人生色々ありますから、人生色々ですが(なんだそれ)、それは30代の時にも使っていた言葉だけど、中庸というか、普通というか、刺激や変化を求めずに自己研鑽をひたすらやっていく感じというか、そんなかっこいいもんじゃないな、ようは普通のおっさんだなあって感じがするんですよね(今更)。何者にもなれなかったなー、という。ここの勝負はバンザイ!降参!ということで良いのではないかという気がしています。

そういうわけで、最近は普通のおっさんやってて楽しいなあという気がしていて、もうここからは何者になるとかじゃなくて、普通のおっさんの楽しみをあらん限り膨らませていければ良いのかな、って気がするんですよね。なんか「すげー最近俺普通だな」、と思って、そんな話を書いてみました。

加藤 康祐 / 企画・設計

プランナー、デザイナー。加藤康祐企画設計代表。Webデザインを入り口に、2005年よりフリーランスとしてのキャリアスタート。主な仕事としてベンチャー企業でのサービスのUXデザイン、独法との防災メディアの運営、社会的養護の子どもたちの自立を支援するNPOのサポート。ラグビーと料理、最近イラスト。

加藤康祐企画設計

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