2021/2/6

泣かぬなら泣かせてみようホトトギス – 泣けない話

鳴かぬなら、ですよね。涙を流す、泣く、人間の基本的な機能だと思うんですけれども、実は僕、基本的に泣けません。ここ20年くらい自分を観察してきた中では、体調を崩した時に薬が飲めなくなってワ―っと泣いた時はあったのですが、感動的な映画で泣くようなことも、ラグビーの試合の勝敗で泣くようなことも、若もののスピーチに心打たれて泣くようなこともなくてですね。祖父母が亡くなった時も泣かなかったと思う。これはもうどうにも薬の影響なんだろう、と思うんですけども。

泣くという行為にはある意味でのデトックス効果みたいなものがある気がしていて、折りに触れ、感情が発露して涙を流すというのは、ある意味で気持ちの良いものだし、爽快なものでもあると思うのだけれども、これが薬を飲む生活が始まってからはほぼないんですよね。どうしたものかと思うわけだけれども、さしあたりそれで困るということはないので、それで良いのかもなあ、ないものねだりだよなあ、という気がしています。感動しないわけじゃないし、嬉しかったり、悲しかったりは当然するんだけど、とは言え、涙流すほどにはならないよね、という。

まあだから、薬で感情というか興奮の振れ幅を制御しているということで、もしかしたら、仕事している時とか、運動している時とか、あらゆることにリミッターがかかっているような気もするんだけれど、もうそれがある意味で当たり前で、ドライとも言えるし、冷めてるとも言えるし、感情が一定の閾値をあまり超えないというのはありますよね。一方で怒りや苛立ちで感情の起伏や興奮が閾値超えると、顕著に陽性症状が現れて来てあらぬ方向にドライブされていってしまう恐れがあるので、これはリスクマネージメントだよなあと思う。

ただそれだけではなくて、日常的に刺激的なものや、感情を強く揺れ動かすもの、に関心が薄くなっていて、これは長い期間そういう生活をして来たがゆえの嗜好性の変化、みたいなことかも知れないけれど、ラグビーはするし、本も読むけど、どちらかというと牧歌的というかのんびりというか、刺激の強いものを忌避するようにもなっているのかなあ、という気もします。

しかし、メタファーじゃないんだけど、今、コロナ禍にあって、行動制限をして3割減った7割減ったとかやってるけれども、薬による感情の起伏や興奮の抑制みたいなことも、そういうことに近しいのかも知れないですね。3割減の感情で生活しているのか、7割減の感情で生活しているのか、はわからないけれども。そう考えると少し不思議な感覚ではあって、とは言え、感情の起伏があると幸せ、感情の起伏がないと不幸せ、ということでもないから、なかなか難しいですよねえ。まあでもそういうことも含めて、自分の性格とか人格の一部になってるような気もするしなあ。

そもそも、薬を飲んでいるのが、100%の感情を僕自身がうまく制御できないということでもあるので(雑な解釈だが)、制約があるはしょうがないし、受け入れるしかないわけだし、日常的にあまり気にしていることでもないんだけど、「そう言えば、泣けないんだよなあ」みたいに考えた時に、自分の状態というのを省みると、なかなかどうして難しい制約と付き合ってるような気もして、やっぱりなんか不思議な感覚だなあと思いますよね。あ、これあくまで個人的な感想なので、薬飲むと泣けなくなるとか、薬飲んでる人は泣けないとかいう話ではないので、あしからず。

泣きたい、という話でもないんだよなあ。

なんかでも、薬は良くなっていると言いつつも、もしかしたら、そういう生き方を自分より前の時代にはした人がいないのでわ、とか考えると、それはインターネットがない時代もあった、みたいなことと同じような話で、やっぱり結構不思議な体験をしながら生きてるということだよなあ、という気がするんですよね。雑感でした。

加藤 康祐 / 企画・設計

プランナー、デザイナー。加藤康祐企画設計代表。Webデザインを入り口に、2005年よりフリーランスとしてのキャリアスタート。主な仕事としてベンチャー企業でのサービスのUXデザイン、独法との防災メディアの運営、社会的養護の子どもたちの自立を支援するNPOのサポート。ラグビーと料理、最近イラスト。

加藤康祐企画設計

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