2018/1/5

『児童虐待から考える』 杉山 春 – 子どもを虐待する親たちは、まるで難民のようだ

5年ほど社会的養護の子どもたちをサポートするプロジェクトに関わっていたけれど、対人支援に直接関わらないこともあり、あまり読んで来なかった「児童虐待」についての本、もうちょっと勉強しようかなと思っていたところ、年末、気になったので読んでみることにしました。サブタイトルにつけた「子どもを虐待する親たちは、まるで難民のようだ」は本書からの引用です。

児童虐待から考える 社会は家族に何を強いてきたか (朝日新書)
杉山 春
朝日新聞出版 (2017-12-13)
売り上げランキング: 4,243

児童虐待のルポタージュ

情報として目にすることがあっても、ルポ、特になかなか読んで来なかった気がしました。厚木男児遺体放置事件を皮切りに、様々な児童虐待の取材をして来た著者が、克明に親と子の様子、特に加害者である親を取り巻く状況に関して、述懐しています。結構、読むの辛い。

一つの考え方として、児童虐待ということが、特別な残忍性とか狂気とか凶暴性によるだけのものではなく、その人を取り巻く環境、育ち、その人の性質(特に生真面目さ、というのが挙げられてました)、社会での孤立などによってのっぴきならない状況に置かれ、唯一思い通りになる子どもに矛先が向かうことになる構造を、一つ一つ丁寧に描写しています。いくつか引用を。

なぜこの母親は、楽しく遊んでいる自分をSNSで表現し続けなければならなかったのか。それは、この彼女が共同体を失うことを恐れていたからだ。SNSの中であれ、共同体に居続けることが最も重要なことだと彼女が感じたとしても、まったく不思議ではない。人は共同体を求める存在だからだ。 そして、現代社会では、私たちが共同体にとどまるために何よりも必要になるのが、他者からの評価だ。

虚構の自分を見せ、コミュニケーションをとることで、彼女はかろうじて共同体の一員としての自分を確保していた。その一方で、リアルな困難には向き合えず、子どもが亡くなった。

グローバル経済が生み出す格差社会の中で、労働と子育ての両立を家族単位で求められてきた。当初は夫婦の役割分担として。その後、一人ひとりの自助努力として。 生きる力がある人たちは、そんなことは無理だと言い、知恵を絞る。周囲の力を借り、経済力を使い、公的支援を使い、自分の願いを実現する。だが、力の乏しい人たちは、周囲を動かすことができず、唯一思い通りになるわが子を痛めつけ、自滅する。

私が聞き取りを行った女性たちのほとんど全員が、性被害にあっていた。社会のルールが消え、暴力だけが充満する時、性がむき出しになる。性の先にある、子どもの命が危機にさらされる。子捨て、子殺しが起きる。 現代の、わが子を虐待死をさせてしまう親たちは、戦時の難民のようだ。精一杯子育てを頑張っている時期があり、それができなくなることで、ネグレクトが起きる。言い換えれば、社会の規範の中で子どもを育てつつ、生きることができなくなったと思ってしまった時に子殺しが起きるのだ

また戦時中の話や、在日外国人の話も、それぞれ取材ベースで触れられていて、きついなと思いつつ読んで良かったと思います。

新しい社会的養育ビジョンについて

本が出版されたのが2017年12月13日ということもあり、勉強しないとなと思っていた「新しい社会的養育ビジョン」について、終章で触れられていました。

旧法の下では福祉の対象として、保護者や、国・地方公共団体によって「心身ともに健やかに育ててもらう」受身の立場だった子どもが、「愛され、保護されること、その心身の健やかな成長及び発達並びにその自立が図られることその他の福祉を等しく保障される権利を有する」(改正法第1条)、いわば権利の主体となったことだ。

日本独自の家族観と子ども観で考えるのではなく、世界共通の価値観で考えていくことがうたわれたことになる。

まず法改正に先立つ16年4月に厚労省児童虐待防止対策推進本部が策定した「児童相談所強化プラン」では、児童福祉司、児童心理司、保健師らの専門職が2019年度までに日本全国で4310人から5430人に増員されることが目標に掲げられた。
また、これまで児童相談所の設置ができなかった東京23区について、改正法施行後5年をめどに児相が設置できるよう政府が必要な措置を講じると明記されたことで、ほとんどの区が児童相談所を設置する準備を始めている。
さらに、改正法が市町村に対して、「児童の身近な場所における児童の福祉に関する支援等に係る業務を適切に行うこととする」と求めていることから、地域で子どもたちを支える「子ども家庭総合支援拠点」が置かれることが決まった。

「社会的養育の対象は全ての子どもであり、家庭で暮らす子どもから代替養育を受けている子ども、その胎児期から自立までが対象となる。そして、社会的養育は、子どもの権利、子どものニーズを優先に、家庭のニーズも考慮して行われなければならない」。つまりすべての子どもを対象とし、子どもの権利が守られる。その上で、社会的養護に関しては、代替養育措置に加え、在宅措置にも力点が置かれるのだ。

その中心となるのが、先に触れた、全国の市区町村に設置される「子ども家庭総合支援拠点」だ。そこにソーシャルワーカーや心理士を配置し、彼らは里親やボランティア、医師などの地域のリソースと連携して、家事労働の派遣や心理カウンセリングなどを行う。親子の入所や子どもがショートステイできる施設を地域に置く。支援が必要な妊産婦が産前産後に宿泊してケアを受けることができるようにもする。こうした地域のメニューをどれだけ豊かにしていけるかは今後の大きな課題だ。こうした体制を、2018年からの5年間で作っていく方針だ。

「新ビジョン」では、閉鎖空間に緊急一時保護される期間を数日以内と定めている。その後は、一時保護里親で家庭的養育を受ける。あるいは、小規模の児童福祉施設でケアを受ける。それはできるかぎり出身地域が望ましい。

さらに「新ビジョン」では、これまで子どもたちを受け入れてきた乳児院や児童養護施設の位置付けも変わり、家庭環境では養育が困難となる問題をもつ、ケアニーズが高い子どもや、家庭への強い拒否感をもつなど、限られた子どもを養育する場に特化される。また、里親のリクルートや、訓練・支援を行うというような、エージェントとしての役割を担うことが期待されている。

「私は、このシステムが適切に働くには自治体の正規の職員として、専門職を置けるかどうかが重要だと思います。そこに予算をつけるかどうかは、厚労省のみならず、総務省の果たす役割が大きいです。国としては地方公務員の数を減らす流れなので、予算がつくかどうか心配です。」

「この方向性には、誰も反対しない。ただ、日々の現場から見ると、とても遠い理想に見える。」

家族と呼ばれるものの形が大きく変容している今、家族を指導し、正しく導くという発想では、困難な状況にいる親と子どもを支援することは難しい。

かつて家族には、財産と家業を次世代に送る役割があった。だが、財産や家業を持たない者にとって、家族とはカップルが出会って別れる一代限りのものだ。子どもが生まれ、育ち、巣立ち、それぞれが命を生き、家族は閉じる。ただし、支えをもたない家族は、一代さえもちこたえられない。
経済のグローバル化の中で、家族は流動化して、人は砂つぶのようだ。その砂つぶの周囲に子どもが生まれる。

一方で家族の流動化を押し止めるために、家族規範を強めるという方向性がある。自民党が成立を目指す「家庭教育支援法案」は、まさしく古典的な家族規範を実践することを家族に求めている。

この辺ちょいちょい読んだり聞いたりして来たけど、一気通貫して頭に入って来てなかった感じがしたのだけど、大分わかりやすかったなと思いました。

まとめ

今回の新書、多分にこれまで杉山さんが継続して発信して来たことを整理しながら綴られたもののようで、Webにもいくつか記事が出ていました。

我が子を虐待する親の「悲しい真実」~「バカな親がバカなことを…」で済ませてはいけない!(杉山 春) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)

不倫、離婚、出産…それでも母であることはやめない。「社会規範」から降り、「所有」しない家族のカタチ(杉山 春) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)

僕はスタンス的には、事の善悪とか、方針の良し悪しとかをあまり強く論じる立場になく、どちらかと言うと、世の中がどのように動こうとしていて、その中で何を実行していくべきで、その実現のために自分を活かせる部分は何か、みたいな感じなのですが、背景とか、経緯とか、現実とか、知らずじまいではそういうこともできない気がしていて、読んで良かったなと感じました。

あと最後に以前soarのイベント行って書いた記事があり。

「かぞく」と「ふつう」 – 「もう一つの”かぞく”のかたち〜子どもたちに多様な大人とのつながりや居場所を生み出すには」に行って来た : Life is Prototyping

一方で、最近よく考えるのが「普通」ということ。ともすれば、「普通」という言葉って多様性の受容の文脈では疎まれる言葉だったりもします。でも最近、それ違うんじゃないかな、って言う気がしていて、当日、挙手して質問してみたのだけれど、僕が知ってる社会的養護を巣立って結婚した子、お話を聞いたのは2人ですが、いずれも「普通の幸せな家族像」みたいなのを望んでいたなあと。当日もきちんと答えていただいたのだけど、後日、別件で違う方にその話をした時に、福祉の世界ではそういうことを「ノーマライゼーション」と呼ぶ、ということを教えていただきました。だからまあ、「家族」が「かぞく」になったように、「普通」が「ふつう」になる、みたいなことないかなあ、と思ったんですよね。「ふつう」を求めることを否定するのが、多様性の受容ではない気がしていて、多様性を受容し吸収し当たり前になることは、つまり「ふつう」になるってことじゃないかなあと。

この辺のことももうちょっと考えていきたいなと改めて思いました。

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