2017/12/30

海、或いは、山、或いは、太陽 – 自然への畏怖について

写真を撮り始めて10年くらい経つのでしょうか。ちゃんとやろうかなと思ったのは @taromatsumura と知り合ってからじゃないのかなあと思うのだけど、最初は本当に実家の周辺の花々とか草木とか虫とかたまに川に飛来する野鳥などを撮っていて、なんか人にレンズを向けるのも、都会の雑踏でシャッターを切るのも気が向かなくて、同じようなものばかり撮っていたように思います。

ちょうど同じくして旅行に行くことが増えました。最初は旅行だったかな。僕の旅行が旅になったのは東日本大震災を境にでしょうか。地元の人の話を聞いたり、そこにしかないものを味わったり、土地の空気や風土を感じて、そこで知り合ったばかりの人と旧知の仲のように酒を酌み交わし、何者でもない自分について語って、今まで知りえなかった人の言葉を咀嚼する。ちょっとカッコよく言いましたが、ある時を境に、観光とは程遠い、徘徊をするようになり、言っても、車も運転しないし、行動範囲は限られているんだけど、時には一眼ぶら下げて、しばしばポケットに突っ込んだコンデジで、一番便利だったのはやっぱりスマホのカメラだったけど、日本全国津々浦々、撮り歩き。

ただやっぱりそれでも人にレンズを向けることは稀で、なんか風景とか、ご飯とか、町並みとか、そういうものを撮っていた気がします。そういう相手が向かって来ないもの、にしかシャッターを切る勇気がなかったのかも知れないですね。

そんなわけで、今でも一番好きなのはなんだかんだ些細な風景写真だったりします。カナエールのカメラマン、やっていたので、散々人も撮ったけど、あれはなかなか緊張感を伴うもので、コンフォタブルに気兼ねなく撮れる、って意味では僕はやっぱり歩いて撮って歩いて撮って、という道姿らの写真が好きなんだろうなって思います。

さて、写真を撮っていて良かったなって思うことが一つあります。ええとですね、海とか、山とか、太陽とか、好きになったことです。え、って思われるかも知れませんが、そういうものに多分子どもの頃、自分興味なかったんですよね。シャッターを切るようになって、そういうものが好きになったという。

そこでなんですが。

さっき、風景写真は向かって来ないからコンフォタブルに撮れて良い、みたいなことを書きましたが。ただ眺めていて、違う感覚あるんですよね。海とか山とか太陽に。畏怖だなあと。勿論、雨とか雪とか疾風とか、なんか自然界には色々あるし、それが折り重なるものが自然だと思うのだけれど。

八百万の神しかり、ギリシアの神々然り、色々なものに神は宛てがわれているし、アニミズムみたいな考え方もあって、そこにあるのって畏怖だと思うんですよね。そういうものって人に対して抱かない気がして、何かこう、一段階上というか、人に対する思惑を明らかに超える何か、みたいなのが自然にはあって、そういうのにしばしば心震えるんだよなあと思うんですよね。海に沈む夕日だったり、高原の朝もやだったり、雲間から見える頂きだったり。

日々が慌ただしかったり、今詰めていたり、喧騒の中に身を置いてたりすると、なんかそういう畏怖を遠目に眺めたくなる、そういう衝動が沸き立ちます。そうそう、あとそれらに共通するのは概ね「静か」だということ。そういう静けさの中の畏怖みたいなものに惹かれるだろうなあと思うんですよね。

なんかそういうのなんだろうな、写真撮ってて感じることって、と思ったりしました。

冒頭の写真は、今年、北九州ではっとさせられた月の明かりです。なんか神聖な感じがしたというか、聖性を感じたというか。ああいう瞬間がこれからもたくさんあれば良いなあって思います。

今年もよく撮ったなあと思いつつ。畏怖したいのだろうな、しばしば。

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