「かぞく」と「ふつう」 – 「もう一つの”かぞく”のかたち〜子どもたちに多様な大人とのつながりや居場所を生み出すには」に行って来た2017/11/30

記事が遅くなってしまいましたが、ちょっと長くなりそうなので、後ろに回してたのですが、soarの「もう一つの”かぞく”のかたち〜子どもたちに多様な大人とのつながりや居場所を生み出すには」というイベントに行って来ました。楽しみにしていたというか、勉強することたくさんあるだろうな、というイベントで、登壇者がSOS子どもの村JAPANの田北さん、ゆずりはの高橋さん、PIECESの小澤さんでした。僕がブリッジフォースマイルやカナエールのサポートを通じて関わって来た社会的養護(イベントでは「社会的養育」という言葉が使われていました)の領域で活動されている3団体で、僕あまり他の団体のお話はこれまでちゃんと聞いたことがなく。

イベントのこと、そこで感じたことは当日、Togetterにまとめましたので、そちらをご参照ください。

#soar_event 「もう一つの”かぞく”のかたち〜子どもたちに多様な大人とのつながりや居場所を生み出すには」に行った感想 – Togetter

「かぞく」について

例えば、問いを「子どもたちには大人が必要なのか?」というところから始めると、必要なんだろうな、ってまず思います。それは大人が素晴らしい、という話ではなく、世代とか、所属とか、職能とか、バックグラウンドとか、多様な価値観に触れて、その支えを受けたり、冗談を言ったり、一緒に何かに取り組んだり、笑いあったり、そういうことは必要。それは例えば今回のイベントならSOS子どもの村JAPANの里親とかもそうだし、ゆずりはの伴走型支援もそうだし、PIECESのコミュニティユースワーカーとかもそうだし、カナエールのエンパワチームとかもそうだけれど、社会に出るちょっと手前で、人を介して社会に触れて、社会に出るための準備運動とそれからの伴走や見守り、その繋がり、必要な時に帰れる居場所づくり、ってやっぱり必要なんだろうなと思います。血縁にかかわらない「かぞく」というのは、つまり、大人の社会的養護への関わり方ということで、なんかふと思い立ったんだけど、カナエールのスピーチコンテストのあの会場を以って「かぞく」って言ってたって良いじゃん、そんなことを思ったりしました。

「ふつう」について

一方で、最近よく考えるのが「普通」ということ。ともすれば、「普通」という言葉って多様性の受容の文脈では疎まれる言葉だったりもします。でも最近、それ違うんじゃないかな、って言う気がしていて、当日、挙手して質問してみたのだけれど、僕が知ってる社会的養護を巣立って結婚した子、お話を聞いたのは2人ですが、いずれも「普通の幸せな家族像」みたいなのを望んでいたなあと。当日もきちんと答えていただいたのだけど、後日、別件で違う方にその話をした時に、福祉の世界ではそういうことを「ノーマライゼーション」と呼ぶ、ということを教えていただきました。だからまあ、「家族」が「かぞく」になったように、「普通」が「ふつう」になる、みたいなことないかなあ、と思ったんですよね。「ふつう」を求めることを否定するのが、多様性の受容ではない気がしていて、多様性を受容し吸収し当たり前になることは、つまり「ふつう」になるってことじゃないかなあと。

基準と意識

なんで「ふつう」を言うかというと、「ふつう」ってやっぱり基準としてわかりやすいんですよね。例えばドロップアウトしたり、権利侵害にあったり、厳しい状況に身を置かれた時に、何となく、社会の平均に追いついたかなあとか、同級生に追いついたかなあ、みたいなことが尺度として自分をベンチマークするためには必要で。じゃないと挽回しないといけない時とか、頑張りようがないじゃないですか。そこで、人それぞれ、とか言われちゃう方が、逆に厳しい。少なからず、何か失ったとか、不足しているとか、取り戻したいとか、手に入れたいとか、そういうことに自覚的になって、それをどうにかしようとしてる時に、「ふつう」ってやっぱり基準として欲しいことあるんじゃないかと思うんですよね。その「ふつう」が人によってそれぞれで良い、少しずつ違ってて良い、ってことじゃないかなと最近思います。

あと、少し毛色が違う話ではあるんですが、もう十数年前の話、人生で障害者手帳を申請するか否や、ってタイミングというのが以前あって、これ勿論度合いや内容によると思うんだけど、それなりに迷いますよね、案外。純粋に損得勘定かも。それを受け取ることが得か損かという。結局、申請しなかったのと、今になって思うと、そういうことほとんど関係ないような働き方になっちゃったなと思うのだけど、それで得るものとか失うものとか、やっぱり考えるわけですよね。これは逆に「普通」を強烈に意識されせられたできごとで、どうしよっかな、ってなった。結果的に今、僕割と「普通」とは言い難い部分も過去を振り返るとあるが、「ふつう」みたいな感じなのかなあと思いますよね。「ふつう」は十分に得られたというか。なんかそんなのもあるよなあと思います(これ障害者手帳を申請する是非の話じゃないので、念のため)。

まとめ

イベントからしばらく経つんですが、なんかこの「かぞく」と「ふつう」、実は結構、社会的養護のことを考える上で、切り離せない話のような気もするんですよね。何が「かぞく」で、何が「ふつう」か、人によって少しずつマチマチな一方で、両方そろうと、「しあわせ」みたいなものに近づくのかなあ、みたいな。カナエールの終了の時に、進学がゴールではなくて、彼ら彼女らにはそれから続く人生とそれに伴うライフステージがある、みたいな絵を描いたけれども、そこに必要なのは「かぞく」と「ふつう」なのかもなあ、って気がしています。進学とか就労とか結婚、そしてもう一度、家族、ですよね。そういうのってもしかしたら「ふつう」に含まれる概念かもなあとか。

この辺まだまだ難しいなと思うのですが、なんかこの2つセットで考えていくと、色々ありそうだなあ、というのがsoarのイベントに今回参加した収穫だったかなあと思いました。勉強になるイベントでした。ありがとうございました。

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