2016/5/1

多様性の許容とマイノリティへの理解について

最近、思うことつらつら。多様性の許容とか、世の中、色々な意見があります、みたいなこと、実は割と苦手です。例えば、LGBTのこと、障がいのこと、児童福祉のこと、生活保護のこと、世の中色々なマイノリティ性の議論があることは承知していて、ただそんな親身に受け入れているかと問われると、僕あんまりそうじゃないなあという気がします。他にも宗教とか人種とか色いろあるだろうけど。この辺の感覚って結構実は大事なんじゃないかなあと思います。

日々仕事をしていると色々な接点があるもので、仕事、ないし仕事に近いプライベートのこととして、先に挙げた4つの現場について、僕はそれぞれ現場の人と関わる機会をもらっていて、それをしばしば仕事としてサポートすることがあります。ただそこにいる一人ひとりをサポートしているかというと違っていて、かなり間接的な関わり方をするようになっていて、それは僕の職能がそういうやり方のほうがレバレッジ効くからってこともあるのだろうけど、直接的にアプローチすることへのモチベーションがあまりない。

例えばLGBTの話だと、以前、ET Luv.Lab.で「カミングアウトが拓くもの」ということで、NPO法人バブリング 代表理事の網谷勇気さんにインタビューしましたが、そこでこんな話をしました。

タクソノミーとフォークソノミー、カテゴリとタグの違いというか、ゲイっていうカテゴリじゃなくて、ゲイってセクシャリティのタグがついているけど、他にも色々な要素があって、セクシャリティのところがゲイ、ってことなんだなあ、ということを思ったんだよね。

Webに理解がある人はよくわかると思うのだけれど、タグってカテゴリに分類できない(階層的に分類できない)、点と点の繋がりを可視化するためにつけられるものなんですね。ブログとかだと、違うカテゴリのコンテンツを結びつけたり、関連性をレコメンドするための要素として、タグが使われます。こういう時、多くの場合、タグをそこまで読者は意識しないで済むというか。

何を危惧しているかというと、マイノリティ性ってあんまり人の本質的な評価じゃないと思ってるんですよ。例えば、仕事とか、人付き合いとか、仁義切れるかどうかとか、真面目かとか、モチベーションあるか、とかそういうことと、マイノリティ性ってあんまり関係ないって言うか。自分が持ち合わせてないマイノリティ性だったら「そうなんだねえ」くらいの話なのが、実は自然で、それ以上の踏み込んだ理解の比重が大きくなっちゃうと「人を見る」時の判断間違うと思うんですよね。むしろ、冗長性を以って見れる部分が大事というか。

そう言えば、こないだ友人のTwitter眺めていて、こんなことを書きました。

多様性は受け容れないで周囲に漂ってるのをじんわり感じてる派。

多様性を受け容れるとか本来的にとても大変なことだよなあと思うんですよね。僕はだからそういうことを積極的にやりたいとはあまり常日頃は思ってなくて、ただ、単純にこの人面白いなあと思ったらそれは面白いのだろうし、モチベーションに可能性を感じたらインセンティブを作れないか考えるのがETの仕事だし、まあだからサポーターのサポーターみたいな感じですよね、おそらく。どうでもよいことはどうでもよい。マイノリティ性の話をすることはしばしばあるけど、そこで人を見ないようにしている。どちらかと言うとサポートしている人の人柄とか、姿勢とか、共感、でもないか、面白いなと思うのと、僕の何かが役に立つことあるかなと思って話している、みたいなことが多い。

本当は誰しにも当てはめ得る物差し、みたいなもので、計れる部分が、大事なんじゃないのかなあという気がしていて。

そんな万能なものはあり得ない、わけだけど、だから主体的に判断の尺度を持ってないといけないということですよね、人を見るのに。そうしないと色々こんがらがる。こんがらがれば間違いも誤解も生まれる。翻って言えば、僕は自分の持ってないマイノリティ性に特に意見ないのかな、と思います。もうちょっと冗長性のあることになら意見したりするだろうけれども。

なので、先の網谷さんへのインタビューもLGBTへの理解を深めるみたいな文脈じゃないんですよね。人生どうだったか、みたいな話してる。

なんかそういうことじゃないかなあと思うんですよね。思うことをつらつらと。

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