2015/9/2

安全圏と責任回避のシステムとリヴァイアサン

こないだ打ち合わせを終えてこれからプロジェクトがキックオフですね、頑張りましょう、という別れ際、「加藤さんはプロだと思いますので、よろしくお願いします」というようなお声がけをいただきました。僕は文系の学部を出て、専門的な美術教育を受けていないけど、現場で仕事を覚えて、今日まで、Webを中心にデザインの仕事をしています。

オリンピックのエンブレムの件については色々な人が色々な言い方でそのことについて伝えていて、特に信頼している人たちが下卑た世評に流されず、いつもより丁寧に言葉を選んでその問題を語ろうとしているのを見ていて、少しそこには救いがあるように思いました。

デザインの「業界」という意味で言うと、僕は元々、孫請けみたいな形での仕事を好まないので、業界という言葉が何らかのヒエラルキーに基づく仕事の分配の仕組みだという解釈であれば、僕も外野の一人であるつもり、というスタンスです。佐野さんと「同じ仕事をしている」という意識も薄い。デザイン事務所と一口に言っても仕事のやり方は全く違うだろうと思うし、今回問題となった写真素材の盗用についても、僕とETのパートナーの関係性と、佐野さんと一緒に動いたデザイナーとの関係性は違うだろうなと何となく思っています。多分、一般の人が想像している「デザイン事務所」という業態は、もう少し色々あって、少し認識と実態との乖離があるだろうな、という気もします。

その上で、今日発せられたメッセージを読んで、「日本のデザインの未来」について語るべき時、というような高尚な気持ちにはあまりなりませんでした。リヴァイアサンと対峙した、向こう側に得体の知れない恐怖があり、手元には落ち度による不安があり、「悪魔祓い」することもできず、しばしば教訓として語られるような、怨嗟の構造に人が置かれてる物語を読み手として読み進めるしかないというような、やりきれなさがありました。気落ち、という言葉がふさわしいのか。デザインの仕事をしていても、やはりある意味で傍観者でしかないのです。佐野さんの仕事を、じゃあ自分がやれば、というステージには少なくとも僕はいない。

今の世の中の言論は、匿名制と実名制、有名税、ポジショントーク、色々な言葉があるけれど、実名でも、有名でも、有力ということにすら拠らない気がしていて、ただ安全圏からの言説か、そうでないかということだけが圧倒的に大きな要素として残っていて、その安全圏にいるということがリヴァイアサン、ということなのだろうと思います。失うものが何もない、ことが悪い意味で、強い。そういう世の中になって来ている。Newsweekのパーソン・オブ・ザ・イヤー、その表紙に「You」が選ばれたのは2006年のこと、それからおよそ10年経って、個人であったはずの人たちは、いつしか組織めいたものの一員になって、「責任回避のシステム」がインターネットでも実効力を持つようになった、そんなイメージじゃないかと思います。

コロッセウムの熱狂と、その大衆娯楽としての観衆の構造は、古代から変わってない。

ただ、オリンピックのエンブレム決めるって話じゃなかったっけ、これ、と思います。今回、省みるべきことはデザインのこれからに関する論理的な反省ではなく、もっと情緒的な、情緒的に反省しないと解決しないような、気分の悪さだけじゃないかなと思います。実際に気持ちが悪い、と感じた。情報の解釈は情報の解釈でしかなくて、それは意見ではなく、意思でもない。自分がそれで実効力のある何かする前提の物言いになってない。だから無責任になれる。結果、とても人間は暴力的で残虐になれる。自分も日々やってることだからこそこわい。

国立競技場の件、エンブレムの件、デモの件、それぞれの良し悪しは置いておいて、最近は色々そういうことに顕著な事例があって、どうしたものかと思うけれど、国民がとか、民意がとか言う前に、今回の件で読んだ記事の中に言及していたものもあったけど、まず民度だろうな、って感じしました。

明日から気を入れ替えて、みたいなことにはあんまりならない話だなあというのが率直な感想です。

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