2014/2/18

情報に関する諸問題について

昔はWebサイトを作ることが仕事だったうちも、いつの間にか、少なからずインターネットを活用した広報、という文脈に重心がずれて来たように思います。そのための土台を作ることが仕事になる時もあるし、そのための材料を揃えることが仕事になる時もあるし、それそのものの役割を担う場合もある。そうやって、Web制作がより情報に寄って行くと、そこには厄介なことがあるなあと常々思っています。

ハンナ・アーレント

先日、レビューしましたが、『ハンナ・アーレント』という映画を観ました。これは情報を扱う、という意味を考える上でも、とても良い映画だったと思います。自分の身の回りにある色々なものを投影できる映画だったと思います。ここにはただ正義を貫くみたいな、ジャーナリズムの正義のロジックがあるわけではなくて、むしろ情報を扱うことの節度と倫理を考える材料になるものだったと思います。

明日、ママがいない

もう一つ、ここ1ヶ月ほど、『明日、ママがいない』というドラマが問題になっており、児童養護を話の舞台にしており、僕も「スポンサーシップとCSR – 『明日、ママがいない』の話など」という記事を書きました。この件に関しては色々考えたのですが、今日読んだ記事が案外結論かもなあと思いました。

「明日、ママがいない」を見た児童が自傷行為? ドラマを放送したテレビ局に責任はあるか

こういう記事にこういうタイトルをつけること自体、僕はある意味での嫌悪感を抱くのですが、ただ、最後に書いてあることは頷ける内容だった。

誠実に作られた社会派ドラマとは言えない?

「そう思います。『21世紀で一番泣けるドラマ』という宣伝文句からも、これが単なるメロドラマにすぎず、児童養護施設はたまたまその『舞台装置』として選ばれただけ、という印象を受けます。多少の『行き過ぎ』は話題作りのためという日テレの『炎上商法』も、相次ぐ番組スポンサーの降板で誤算が浮き彫りになりました。5回目の放送を終えて視聴率にもかげりが出てきたようで、お茶の間が正直であることもわかります。安易な制作意図のもとに作られた薄っぺらいドラマなんぞに傷ついてはいけません。そんな『安物』のドラマは無視して見ないこと。それこそがテレビ局に『責任』を取らせる最良の方法であると思います」

炎上トラフィックについて

最近、炎上トラフィックということを考えます。これはある対象に紐づいているもので、先のテレビ番組についてもそうだし、ソーシャル・メディアの場合はしばしば人自体に紐づいている場合もあるし、それを良い意味でも悪い意味でも計算して物事を行おうとする人もいる。それが正しく機能させられる人もいるだろうし、害悪にしかならない人もいるだろうけど、個人的にはあまり好きなやり方ではないです。

ただ、この問題、大分昔からある。

国民総批評家社会 : kosukekato.com

小林秀雄氏は「勇ましいものはいつでも滑稽だ。人間の真実な運動が勇ましかったためしはないのである。」と言っています。インターネットでたまに見かける「勇ましい言葉」がしばしば「滑稽な言葉」であるのは、この言によって証明もされるのではないでしょうか。

また、小林氏は「批評とは、人を褒める特殊な技術である」とも言っています。人を辱めたり貶めるだけのものは得てして批評とは言えないということです。貶すだけならわざわざ取り上げて論じる必要はないし、貶すだけのことが新しい価値を生み出すこともない。

こういうことは折々で自戒を込めて反芻します。僕個人の影響力は小さなものですが、影響力のある人としばしばご一緒することもあるし、そういう時に僕がやる以上、さじ加減を間違えてはいけない、という気持ちはある。

個人が様々な情報を発信できるようになるのであれば、他者への批評ということは、小林秀雄が生きた時代よりむしろ思い遣りが溢れるべきで、それが良い評価であろうと悪い評価であろうと他者への丁寧な理解に努めることこそが、あちこちに「批評」が蔓延するこれからの社会においては重要なのではないかと思っています。

かなり綺麗事だけれども、それでも「炎上させない」ってことは、「他者への丁寧な理解」をいかに作るか、って話だと思います。腫れ物に触らないだけでも駄目で。

Hanako倒産

そう言えば、久しく忘れていた言葉ですが、最近、見かけてふと思い出した言葉。Hanako倒産。ようは情報誌に掲載されて、話題になるんだけど、きちんと中長期的に回転できなくなって、結果、倒産することがあるという話ですね。「批評とは人を褒める技術である」という文脈で言うと、これは外れ値になりそうだけど、ここで問題になってくるのが、話題になることの「賞味期限」ということかと思います。

有名になること、自体は悪ではないけれど、消費の対象になると、そこにはしばしば賞味期限がつく。例えば、一昨年か、生活保護の不正受給の問題が話題になりましたが、あれだけ話題になったのに、今、その話題を聞かない。ご存知の通り、不正受給は問題だけれど、一方で生活保護が必要な人も確実にいるわけで、そういうことへの正しい理解が生まれたのかどうか不明なまま、賞味期限が切れる、みたいなことがある。

影響力があって、批評の質が良かったとしても、にもかかわらず不可抗力として働くことはあり得る。逆に言うと、情報を扱う時に、その題材・対象の賞味期限の発生については多少なりとも神経質にならないといけないのではないかなとも思います。勿論、いくつかのレア・ケースであるにせよ。ここには多分、一面だけを一部分だけを切り取られることのリスク、というのがあるんじゃないかと考えています。

世の中には、良い切り口、鋭い切り口、というのがあるけれど、その「切り口」自体が、不可抗力の原因になることがある。

まとめ

しばしば、散見される情報に関する諸問題は、影響力と、批評の力、がバランスしてないように見受けられます。もしそうでないとしたら、世の中の「批評」ということ自体が、少なからず、僕の望む「批評」から乖離してるんだろうと思うし、そこに影響力を働かせているのは、テレビ、ラジオ、インターネット、つまりメディアなんだろうと思います。

このことに関しては、あまり日和見主義を決め込むつもりもなく、とは言え、メディアの態度自体を是正するような働きかけをするつもりもなく、ただただ自分の関わるプロジェクトでは、それをきちんとやりたいと考えています。

最後に今日、良い一文を読みました。

大雪関連の批判を見て思う。 – 徒然なる壮言

そんな時、傍から見ている人間は本当に無力だ。

傍から見ていても何もできない。無力だ。出来る事があるとすれば早期の問題解決を祈る事と被災された人の無事を祈るくらいだ。しかし、そんな時に限って外から見ている人間から変な批判が巻き起こる。何故そのタイミングでその批判なのだろうかというものが多い。首相動静に関する批判だったり報道に関する批判だったり。

それらの批判は何らかの感情が増幅されて批判が起こるのだが、そうしたものほど多くの人の感情にストレートに刺さりその広がりは大きくなる。しかし、その批判は的を射ていないだけではなく極めて無責任である事も多い。

その様な批判に何か生産性があるかと言えば何もない。
何故生産性が無いのか。それは、無責任であるからに他ならない。
批判をするなら批判の仕方から勉強した方が良い様に思うのは私だけだろうか。
批判する前にそれより生産性の高い事があるのであれば行動に移すべきだろう。

情報化が進み、それが批評家をたくさん生むとなると、それはもしかすると情報と批評の同義化を生むのかも知れません。ただそういうの個人的には承服できないんだよなあ。批評には批評の価値がある。

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加藤 康祐 / 企画・設計

1980年1月12日生まれ。フリーランス歴15年。プランナー、デザイナー。加藤康祐企画設計代表。学生時代にデザイン会社でWebデザインを経験。2005年よりフリーランスとしてキャリアスタート。これまでに個人から上場企業まで、100以上のクライアントとのプロジェクトを経験。主な仕事としてベンチャー企業でのサービスのUXデザイン、独法との防災メディアの編集・運営、社会的養護の子どもたちの自立を支援するNPOのサポート等。趣味はラグビーと料理。Keep the head up, Bind tight & Stay low.

加藤康祐企画設計

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