2014/1/31

没量、貨幣価値、隠者の思想

ふと昨年の春に読んだ記事をこないだ久し振りに見かけたのですが、この記事面白いんですよね。

細川護煕氏インタビュー Part1 – 政治と陶芸と – | PingMag : 日本発 アート、デザイン、くらし
細川護煕氏インタビュー Part2 – 政治と陶芸と – | PingMag : 日本発 アート、デザイン、くらし

細川さんが政治は引退しましたという体で、陶芸やら襖絵やらなんやら、平たく言うところの隠居暮らしの話をしている。ここにある、「没量」という言葉がとても面白い。

いまのその、わたしはね、このまえある人にね、没量(もつりょう)というね、こういう言葉を書を書いてお渡ししたんですけども、それはなんでもその量で計るという時代ですね、今はね。なんでもお金がたくさんあればいい、いくら稼いだか、何人人がはいったか、全部それが基準になってるんですね。その没量(もつりょう)という言葉がどういう言葉かというと、昔、蓮如上人という偉いお坊さんがいましてね、そのお坊さんのところにですね、道宗(どうしゅう)という若い男が来て、ぜひ蓮如(れんにょ)さんあなたのお弟子にしてくださいと聞いたら、蓮如さんが「じゃあ、おまえこれからすぐ琵琶湖にいって琵琶湖の水をぜんぶ掻き出してくれ」と。そしたらその道宗という男が「じゃあいってきます」といってそこにある柄杓をもって琵琶湖に向かって駆け出していくんですね。それでそれを見た蓮如さんが「よしお前はなかなか見込みがある、弟子にしてやろう」と。

つまり、柄杓持って琵琶湖にいってそんなもの引き出せるはずないんだけど、だけど、そんなことは無視して、つまり量のことは無視して、彼は駆け出していった。そのことがね、わたしは今は大事なことだと思うんです。なんでも量の時代で計る時代に。

例えば、「お金の世界を降りる」みたいな話って、人に優しくみたいな話でもないんだなってことがわかりますよね。ここで言ってる、没量って、どちらかというと量的な問題に縛られない向こう見ずさみたいなことだ。

もう一つ面白い記事を紹介したい。

資料室(エンデの遺言 ~根源からお金を問う~ ) <Anti-Rothschild Alliance>

これお知り合いが紹介してて読んだんですけど、すごい面白い。経済活動が抱える問題について、貨幣システムそのもののあり方を問いただすみたいなアプローチ。具体的な事例として地域通貨の話が出て来ます。昔、僕も同じようなことを考えていたことがあって。

kosukekato.com » 貨幣経済、評価経済には乗れない感じがしたので寄与経済

これようは評価経済みたいな言葉が出て来た時に気持ち悪いなと思って(あ、言っちゃった)書いた文章なんですけど、言ってるように、「人間、皆、時間給」みたいな話ですね。

よく引き合いにだす話として、野菜と靴修理という話があります。近所で取れた野菜の代わりに、靴を修理してあげる、みたいな商売が理想だよね、という話を昔友人としたんですね。これ物々交換という意味では野菜と靴修理は等価という「見立て」なのだけど、もうちょっと考えるとちょっと違うんですよね。野菜はある意味のマスプロダクションのフレームの中で取れるなん万個のうちのいくつか。それに対して靴修理は完全にオーダーメイド対応での一足。クオリティはそれぞれ最高のものであるべきなんだけど、それ前提で、前者はたくさんの時間をかけているけど頭数で割っていて、それに比べて後者は短い時間だけどそれ一つである、ということでディールが成り立っているわけです。

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あともう一つピックアップしたい話があって、それは松下弓月さんへのインタビューで、ET Luv.Lab.の結構初期の話なんですけど。

【加藤】 日本人って精神的に困難に対して楽天的になれない性質があるというか、結構真面目に悩んじゃうところがある気がしているんですけど。

【松下】日常性から逸脱するような回路というものを、どれだけ持ってられるかだと思うんですよ。キリスト教圏であれば神という絶対的な存在があって、そこに繋がるという回路があるんだろうと思います。日本人の場合は「ハレ」と「ケ」と「ケガレ」という日本人の宗教性の生活形態を3つに分類するような言葉があります。ハレはお祭りの時ですよね。ケは日常で。ケガレというのはなにかその負の非日常性ですね。死に関するものとか血液に関するもの。日本人はこの3つの間を行ったり来たりして生きていた。普通の日常生活の中でたまにお祭りみたいな時があって、その時だけ触祭的な空間なり聖性に触れるんだけど、また日常に戻ってきて。たまには人がなくなったりしてケガレになったりするんだけれども、身を清めて元の日常に戻る。こういう往還運動があったから、日常性の中でがんじがらめになるということがなかったわけですよね。それが今は宗教性というものが、危険なモノ的な捉えられ方しかなくなってしまっているので、日常の囲いの中から外に出られなくなってしまっている状態だと思うんですよね。

【松下】それって非常につらいことだと思うんです。生きていくのは楽なことばかりじゃないですから、大変なことが沢山ある中で、日常性から抜けられない。そこから逸脱して開放感を得たりというようなこともできない状態にある。それを何かもう一度取り戻すような回路というのはあった方がいいんじゃないかと思います。

これ、お金の話に限ったことじゃないんだろうけど、没量って言葉を読んだ時にすぐに思い出したのがこの話でした。その日常性から抜け出すというのはある意味「質」が「量」に支配されてる部分があるからなのかなと思うんですよね。

まとめ

何が言いたいかというと、特に言いたいことはないんですが、こういうのってある意味、隠者の思想だと思うんですよね。隠者って何だ。

隠者(いんじゃ)とは、一般社会との関係を絶ち(隠遁)、生活する人のこと。特にキリスト教や仏教など多くの宗教の宗教者、または宗教的背景をもった隠者が多数知られる。

僕はこういうことの強さってあるんじゃないかなあと思っていて、でもそれは120%隠者になりきる必要って現代社会にはなくて、細川さんのように一時的に隠居するのかも知れないし、エンデのように地域に社会とパラレルの経済圏を築くみたいな提案になるのかもだし、弓月さんがいうところの日常性から逸脱するような回路ということなのかも知れないけれど。こういうこと割と自分に自信がないと実践できるもんじゃないかと思うんですけど。一歩引けるって感じかな。俯瞰というか。司馬遼太郎さんが亡くなった時に、回顧録みたいなムックを買って、もう手元には残ってないんだけど、あの時、やたら気になったのも、司馬史観って結局、俯瞰の技術、みたいなことだった気がする。

最終的には朧みたいになるんでしょうかね。

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加藤 康祐 / 企画・設計

1980年1月12日生まれ。フリーランス歴15年。プランナー、デザイナー。加藤康祐企画設計代表。学生時代にデザイン会社でWebデザインを経験。2005年よりフリーランスとしてキャリアスタート。これまでに個人から上場企業まで、100以上のクライアントとのプロジェクトを経験。主な仕事としてベンチャー企業でのサービスのUXデザイン、独法との防災メディアの編集・運営、社会的養護の子どもたちの自立を支援するNPOのサポート等。趣味はラグビーと料理。Keep the head up, Bind tight & Stay low.

加藤康祐企画設計

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