2013/9/28

もう一度、批評の話をしよう

このブログ、「批評」で検索かけるとたくさん出てくるのですが、もう一度、批評の話をしたいと思い起こすことがあったので。

僕はスポーツ観戦が基本的には好きじゃなくて、ご多分に漏れず、うちも夜はナイター中継などがテレビで流れていたのだけど、そのなんだ、スポーツ観戦しながら批評のコメントを横でされるのが本当に好きじゃなくてですね。だってこの人達、俺より絶対上手いよ、という。いやあ、今思えばスポーツ観戦しててそうなるの普通だと思うんですけど、なんでか、好きじゃなかった。飯のことも、じゃあ自分で作ればいいじゃん、と思っていたし、なんか僕の反抗期の精神構造って大体そういうものどもだった気がします(ここまでの二例は自分に都合の良いケースですが 笑)。

ただ、結局、僕が小林秀雄の「批評とは人を褒める技術である」って言葉にことのほか執着するのって、結構もう子供の頃に決まっちゃってたのかも知れないな、などとも思うのですね。

勿論、見ることで目は肥える。知ることで知識は増える。だから批評はできるし、そういう批評に価値はあるし、批評とはそういうものだとも言える。ただ、僕のしたい批評はそうじゃなかった。

以前友人と話していた時に、焼きものは仕事にしてないから純粋に楽しめる、って話をしていて、なるほどなと思った記憶があります。僕も仕事にしてないので、純粋に好きか嫌いかで判断できる。そもそも焼きものの批評なんて畏れ多くてできないけれど、土をこねないと焼きものは批評できないかというと、そういうことでもないのかなと思います。例えば料理を作る。器に盛ってみる。そういう体験があることで、器を語る時に経験をベースにした文脈ができる。そうしたらそれは少し生き生きとした批評になる。友人は酒器が好きだそうで、一杯飲み干した後に酒器を酒で撫で回すことの心地良さを楽しそうに語ってました。

お茶でも生花でも何でも良いし、そもそも焼きものの話でなくても良いのだけど、大事なのは対象物に行き着くまでに自分の経験という文脈があるか、ということだろうと思います。その上で厳しい批評もあって良い。

プランナー、企画屋か。そういう仕事も、結局は仕事の大半は批評なんだろうと思います。褒めちぎっても、貶すだけでも、だめだろうし、プレゼンだって、提案書だって、言ってしまえば批評だ。良い批評をするために必要なのは経験という文脈だと思います。少なくとも僕がやってる企画という仕事の大半は、新しいアイデアを生み出す類のことではなく、ただただ批評をすることです。

僕の旅行記はしばしば批評だと言えるし、書評はあんまりまともに書かないけれど、インタビューだって批評かも知れない。料理は、まあ、批評ではないかな。写真を撮ることも批評だって言えるようになると良いですね、とか(そう考えると道のり果てしない)。

何かを褒めるレトリックって言うのはあると思うんですけど、それそのものは多分批評にはならない。そこに経験という文脈がないといけない。大きな問題を批評するには経験が足らない。深刻な問題を批評するには経験が及ばない。だからできるだけ細かく小さく手の届く範囲に持って来て批評する。後は経験を増やさないといけない。だから、動く。そうやって批評する術を身につけていく。やっぱり頭だけじゃなく、手と足に経験させて、ようやく言葉が文脈に乗ってくるんじゃないかなあと思います。旅に出て「自分探し」する年齢でもないですから、何やってるかというと、有り体に言うと、批評するための材料を自分に揃えている。そんな風に考えても良いんじゃないかと思います。

足らない、及ばないだけじゃ駄目だと思うけど、例えば、政治のこととか、汚染水のこととか、力量及ばず、だから自分の批評をあまりできず。意見があることと批評ができるかってことも違うと思うんですよね。その上で、人は情報だけを以て批評していると自ずと対象物に横柄になる。アクティビティに紐づいていれば、批評は無責任になれない。

新しいことを覚えれば批評の文脈が増えていく。そうじゃないと、自分を納得させる批評ってできないだろうなあと思います。

最後に、これ親との直近の会話なんですけどね。

俺「まあ、あんまり幸せな死に方できそうにないよねえ」
親「まあ、生きていればいいよ、とりあえず」

この返答は良い批評。

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