2013/7/6

教育と学習とノーマン

去年くらいからですかね、何となく教育について考える機会が増えて、まあ、僕、プライベートでもビジネスでも独りっちゃ独りなので、割と普通の人よりむしろ縁遠かったりもするんですけど。ただ、去年の石巻のプロジェクトやTED行ったりしてFacebookの友達にも高校生や大学生が少し増えたり、先日お邪魔したカナエールとかも広義の奨学プロジェクトだったり、今、実は企業の教育・研修をされている会社さんの仕事をやってたり。こういうのは何かと連動するものですね、やはり。教育ってテーマ自体が普遍的なものだからかも知れないけれど。

僕は教育の現場にいないわけだし、もっとそこにコミットしている仲間もいるわけだけど、たまに、もどかしいなあと思うことがあって。今日、Facebookにこんなことを書きました。

承認欲求とかじゃないんだよなー。この国の教育には、若い子が自分が身につけた能力が、人の役に立ってるって実感できる機会が少なすぎる。

なんかぼんやり1年くらい考えてましたけど、そういうことじゃないかと思うんですよね。最近覚えた言葉に「自己肯定感」って言うのがあって、これと対応するのが多分、「承認欲求」ってやつじゃないかと思うんですけど、多分、僕は本来的に人が学ぶことのメカニズムは「自分が身につけた能力が、人の役に立つ」ってところに存するべきな気がしていて、そうじゃないと、モチベーションって持続力を持ち得ないと思うんですよね。

最近、あんまり、ET Luv.Lab.でそういう話してないけど、まだ始めたばかりの頃に、北山君児玉君と、大学が多過ぎるという話や職能訓練の話をしていて、それはちょうど、世の中、サブプライムの影響などもありつつ、就職が本当に厳しいって状態で、僕個人としても確たる解をそこに持ち得てなかったから、そういう話題を振ったのだと思うのだけれど、職能訓練っていうと、社会に出た時に役立つ技術身につけるみたいにも思う一方で、「自分が身につけた能力が、人の役に立つ」ってことを実感しやすいプログラムとも言えるんだろうと思うんですよね。

少し話が脱線するけど、例えば、料理をするってことに関しても、人に食べさせる料理を作って、始めて自分が食べる日々の料理を大事にできるんじゃないかなあと思うんですよね。日々のことって、簡単におざなりにできますし。

仕事でもそう。このプロジェクトが、この役割が、この作業が、という時に、全部自分で完結してしまうと、それはおざなりになりやすい。誰のための何かである、と考えて動けた時に始めて、成果のアフォーダンスを得られる。修行僧とかだと別なのかも知れないけど、僕が俗世にまみれて仕事している感覚ではそう思うし、社会のためとか、夢のため、とか大き過ぎるものに、僕は日々の些末なことを支えてもらうだけの辛抱強さはないです。

もう20年以上前の本だから、古典も良いところだけど、『誰のためのデザイン』という本があります。僕は学生の時に読んだけど、その頃にして古典だったんじゃないかな。

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今、UXとして語られている文脈においてもこれは古典で、結構、その筋の人は皆読んでるんじゃないかなあと思うんだけど、ようは教育と学習がここに紐づいてない、つまり、「自分が身につけた能力が、人の役に立つ」という実感する機会が少ない、って言うのが、なんか閉塞感作ってる気がするんですよね。

それあれば結構どうにでもなると思うんだよなあ。

ちょっと若い子が書いているものを読んで、そんなことを思いました。

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